待機児童の問題は相変わらずなくなりません。
出生数は毎年減り続けているのに、”順番待ち”の児童数は
解消されないという、不思議な状態です。
安倍首相が「50万人分の保育の受け皿を整備したい」旨
発言していました。
共働きが増えざるを得ない昨今、受け入れる”皿”を増やすのは、
とてもいいことだと思います。
待機児童減少に向けて加速しそうなところ、問題は
その整備された受け皿で実際に働いてくれる保育士さんの数です。
年々、保育士さんの数は減っています。
厚生労働省は、2017年度末には74,000人の不足に陥ると
予測しています。
その理由第1位は、給与額の低さです。
ご承知の方も多いと思われますが、ぶっちゃけた話
保育士さんの給与は少ないようです。
希望の給与額に達しないために、資格は持っていても職につかない
”潜在保育士”が増えることになります。
離職率の高さもあいまって、結果保育士さんの人数が減ることになります。
給与が「多いか少ないか」を論じる際には概して主観が
入り込んでしまうものですが、外部の人間が客観的に聞いても、
生活を圧迫し得るレベルの額だと感じられます。
単純な金銭欲求のみではなく、
「自分たちの提供する労働の価値と対価が釣り合っていない」という、
働くことに真摯に向き合っている背景がちゃんと存在しています。
『未来の労働力たり得る子どもたちに健やかに育ってもらうためにも、
保育士さんたちの給与を上げましょう!ウォーッ』
と声高に叫びたいわけではありません。
私が着目したいのは、保育士さんたちが
なぜ対価が見合わないと感じているか、という点です。
就職活動期の学生や社会人になりたての若手ビジネスパーソンの間では、
『お金よりやりがいだ!ウォーッ』という熱い議論が必ずと言っていいほど
展開されます。
たいてい居酒屋の中です。
気持ちの中では、やりがい>お金になっています。
やりがいはとても大切です。
精神衛生に直結するモチベーション部分は、ある意味お金には換えられない、
自分だけの秘伝的要素です。
当たり前ですが、お金も大切です。
「現実問題として、最低限のお金の土台があって初めて
”やりがい”について語ることができる」ということに
やがて気づいていきます。
よく考えたら、「仕事とは何ぞや」がまだまだイメージできない段階で、
”やりがい”について語れるはずがないのです。
語りようがないと言った方が正確でしょうか。
とあるテレビ番組で取材を受けた女性保育士さんが、
とても興味深いことを言っていました。
『楽しく笑っていたい。自分たちが笑っていなかったら
子どもたちに影響する』という趣旨の発言でした。
楽しく笑えない理由は、「給与が低いから」です。
ブランド物が買えない、という意味ではありません。
「生活自体が圧迫されていて、どうして子どもたちに元気を提供できようか」
という意味です。
生活が圧迫されるほどの低給与に不満を抱くということは、
「少なくとも普通水準の給与をもらうべき労働価値を提供している」
という自負を持っていることに他なりません。
”誇り”と言い換えることもできます。
実際、背負う未来という将来的ベクトルも含めると、現時点での子どもたちの
ケアは相当な価値を有するものでしょう。
これを営業マンに置き換えてみます。
たとえば、悲壮感たっぷりの営業マンから、誰が商品を買いたいと
思うでしょうか。
自社の商品に自信と誇りを持ち、楽しそうに売っているからこそ
買いたいと思うのです。
「楽しそうに売っている」とは、ヘラヘラ笑っていることではありません。
「この商品を提供することで、お客様にどんな楽しい未来が訪れるだろうか」が
明確に想像できている状態です。
もしくは想像しようという意思を持っている状態です。
「売りつける」とは対極の発想です。
自信と誇りに裏打ちされた営業行為には、お客様のことを想像するという
プロセスがセットになっており、自然と”やりがい”が見え隠れします。
もちろん、保育士さんも各々の中に、”やりがい”を持っています。
大半は子どもたちと接するそのこと自体に”やりがい”を
見出しているでしょう。
やりがいと低給与の狭間で、誇るべき提供価値が揺れているのです。
もうひとつ、その保育士さんはとても核心的なことを言っていました。
『保育士って人間性だと思う』
ズバリ、仕事の本質を表したひと言です。
これは実は、全ての仕事に当てはまる普遍事項です。
人間性なくしては、何ごとも始まらないとさえ私は思っています。
※人間性が大切な要素であることはこちらの記事でもお話していますので、
よろしければご参照ください。
⇒一緒に仕事をしたいと思われる要素
時に、雇い側は、雇われ側の”やりがい”に甘えます。
雇われ側がやりがいを(自分で)見出してくれれば、
もしくは「やりがいを提供してくれている」と解釈してくれれば、
給与の高低議論が勃発する可能性は低いからです。
雇われ側が”やりがい”について考える時は、その点に少し
注意する必要があります。
作意の有無も意識してみるということです。
逆に雇われ側として、ただ機械的に『給料上げてくれ上げてくれ』と
叫んでいるだけでは、短絡さが目立ってしまいます。
雇い側に『あんたの提供してくれている程度の価値じゃねえ・・・』
と言われてしまうと、立ち直るのに時間がかかります。
大切なことは、提供できる価値の基準をどこに持ってくるかだと思います。
直接的な利益貢献なのか、職場の空気に影響を与える人格的存在なのか、
基準は社風によっても変わります。
その価値次第では、弱者が強者に対抗する充分な手段となり得ます。
”やりがい”はあくまで主観要素であり、提供価値に影響を与えるものには
なりにくいです。
ただし、「やりがいがあるから給料安いけど辞めない」という場合は、
安い給料で踏みとどまっている以上、間接的に労働力という単純価値を
提供していることになります。
「お金のために働く」は、立派な大義名分だと私は思います。
せっかく人間として働くので、その大義にいかに血を通わすかが、
大きなポイントだと思います。
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